なべとびすこのなすべきこと

やってみたいをやってみよう。短歌を中心にいろんなことをやっている歌人のブログ。

ダメな自分を肯定しすぎた

 一番辛いとき、私を肯定してくれたのは、ちょっとダメな人のエッセイだった。

「ちょっとダメ」の種類はそれぞれで、コミュニケーションがうまくいかないとか、片付けができないとか、無茶な計画を立てて失敗するとか、努力の方向性を間違えて報われないとか、何回もダイエットに失敗する…など。

でも、そんな作者にはそれぞれ才能があって、そんなダメなところも含め、魅力的に見えた。

そして私は、少しずつ自分のダメさを肯定できるようになった。

 

それまでは、自分がだらしないことやコミュニケーションが苦手なことなどに対する嫌悪感が強く、自分をどんどん嫌いになっていった。

だが、「ダメな自分を肯定する」のベクトルを、もう何年も間違えていたのかもしれないと思うことが何度かあった。そのたびに目を背けて、「だってダメなあの人たちは、あんなに才能があるんだから」と開き直っていた。

 

ただ、私には彼らのような才能はないことにももう気づいていた。

ダメな部分だけが共通していても、才能のない私は、彼らと一緒にはならない。

 

「ダメな自分を肯定する」ことのすべてが悪いことではない。自分のダメさを嫌って毎日消えたいと思いつづけるよりはずっと良い。

ただ、そこを肯定できたあと、もう一段階進んでもよかった。ただ、ダメな自分を肯定しすぎた私は、ダメな自分じゃなければ肯定できなくなっていたのかもしれない。

 

先月引越しをしたとき、人生で一番くらいの本気さで、自分のことが嫌いになった。

自分の部屋の散らかり具合と、収納におさまっていない物や本の多さ。全然読めていない本の山。明らかに要らないものを捨てる、という簡単な行為すらできていない現状。

引越しはそもそも大変な労力を伴うものだが、もうそんなレベルではなく、無駄に時間もかかり、無駄に体力を使い、無駄に体調を崩した。

 

毎日泣きそうになりながら作業をしたのに、結局当日の朝まで作業は終わらなかった。

 

このタイミングで変わらんかったら、たぶん一生このままなんやろうな、と思った。

 

以前書いたことがあるが、私は何かに困った時、適切に検索したりすることで、問題を解決する方法を推奨していた

 

もちろんそれでも治らないようなもの(ご存知の通り「方向音痴」など)もあるし、というか正直言えば世の中そういうものばかりだが、一旦ちょっと検索してみる、というのはこれまでもやっていた。

 

実際私は「つ」が発音できない問題もナイトスクープに依頼して解決したり、恐怖症の解決のために催眠術をかけてもらう(ちょっとマシになっただけ)などの行動を起こしてきた。

 

それなのに今まで「片付け コツ」「収納 テクニック」のような検索をしたことがないことに気づいた。私が検索していないということは、治したいと思っていないことと同義だった。だって私は困った時に絶対に検索をするから。

 

そして、職場の図書スペースに整理整頓の本がたくさんあったことを思い出した。世の中に、片付けや掃除の本は多数あることは知っていた。ただ、それにも手を出そうとしていなかった。治したいと思っていなかったから。

 

その中で見つけた本がコレだ。

 

『だから片付かない。なのに時間がない。 「だらしない自分」を変える7つのステップ』

 

ただ、正直読み始める前は「はいはい自己啓発本ね」と思っていた。

私は基本的に自己啓発本が嫌いだ。自己啓発本のなかでも胡散臭い内容の本のせいで友達が苦しんでいたことがあったから。そして、その友達に本を借りたので読んだこともある。(その本の意図を読み取ったうえで、これで救われる人はいるけど、友達にはあんまり向かないし、私には絶対に無理という結論になった)

 

そういう胡散臭い本の存在は実際にあるけど、まあとりあえず、と思って借りた。借りるだけならタダやし、しょーもない本なら返せばいいし。

 

最初の部分で、著者も元々だらしない人間だったことが書いてある。だらしない内容はかなりひどめの感じだったが、自分にも似た部分があることも理解した。

 

ただ、序盤でかなり共感することがあった。

 整理術の本をいろいろ読んでもほとんど功を奏さなかった。そもそもきちんとしている人は、たいがいの整理術の本に書いているように、わかりきったことしか言わない。冷静になり、計画を立て、「とにかくやりなさい」か「いますぐやりなさい」だ。

 

いやもうほんまそれ」と思う。片付けだけじゃなくて、寝つきが悪い人は試して、とか、寝起きが悪い人は試して、みたいなやつも大概そんな感じで、いや、それできたらやってるわ、と思うだけだった。

 

ただ、わざわざそう書いてるということは、この本はそういうアプローチじゃないということなので、ちょっと期待する。

 

また、だらしなさは創造性の源だと固く信じていた。だらしない人間は創造的、創造的な人間はだらしなさい。だらしなさ創造性は切っても切れない関係と信じるあまり、身の回りのことをきちんとできていて、かつ創造的な人の姿が目に入らなかった。

 

そういうところ有る…まさにそれ…ほんまにそれ…

いやこれウチやわ、穿った見方すんの止めよ、ということでようやく素直に読み進められた。

 

と思ってすぐにこうなった。

 

 

こういうだらしなさとTwitterは相性が良くて、自分のダメさはさらに肯定されていく。

実際そういうツイートは面白いことも多いし、それを楽しむことも発信することも、別に悪くはない。

ただ、その一瞬のために、このまま一生自分のだらしなさと付き合って、自分のことを嫌いになっていくことを想像して耐えられなくなった。

 

だらしなさもダメさも、楽しめる人はいる。人間には向き不向きがあるから、そこを否定するつもりは絶対ない。

もし今後私が今より数百倍まともな人間になったとしても、自分を救ってくれたちょっとダメな人のエッセイのことを絶対に否定したくない。人生でそこに救われるフェーズは確実に存在するし、それで救われる人は今後もいると思う。

でももう「私」はそのフェーズから抜けたい。

 

一番納得したのが以下の部分だった。

 

「システムや日課
 冗談じゃない。毎日決まったことをするなんて、退屈でやってられないね。システムだって、どうやって作るんだ!」。そう思う人もいるだろう。日課で人生が退屈になりそうな気がする人は、ちょっと考えてみてほしい。あわてふためいて鍵や所得税申告書を捜すことが、実際、そんなにおもしろいことなのか。汚れていない服はないかと物色することに、やりがいを感じられるとは思えない

 

ぐうの音も出ん…

 

「今後のためにとっておいて、専用のファイルをつくろう」(かといってなんの専用にするかは未定)

 

心当たりがありすぎる… 

 

約束に遅れたり、ギリギリまで用事をやらなかったり、滑り込みで締め切りに間に合わせたりすると、ゾクゾクするような興奮を覚えるものだ。(中略)

この種の刺激は胸をワクワクさせる。同時進行でいろんなことをこなし、何かを達成しているような錯覚を抱き、時間を有効に活用している気がしてくる。しかも、物事をギリギリにするのはとても刺激的なので、深刻な悩みにわずらわされずにすむ。

 

 

 この本は整理整頓術という実用面以上に、なぜだらしない生活を過ごしてしまうのか、

 という心理的なアプローチが多い。実際にだらしない人の経験を元に、いろんなパターンを紹介している。

私はだらしないが、約束の時間に遅れることはそこまで多くはない(※0ではない)ので、自分に当てはまらないときも、「そういう考え方の人もおるんや」と納得できた。

 

わざわざこんなブログを書いてるのは、今の本気の変わりたい気持ちを残しておきたいと思っているからだ。

数ヶ月経って結局まただらしない自分に戻ったら、このブログが世に存在すること自体がめちゃくちゃ恥ずかしくなるだろう。

 

短歌のすみっこを伝えるwebマガジン「TANKANESS(タンカネス)」を始めます

こんにちは、なべとびすこです。

平成31年4月30日、今日は平成最後の日ですね。

新しい元号は令和。

語源は万葉集から、ということで、万葉集ブームも起きているそうですね。

 

これで短歌の時代が来る! かどうかは、正直わかりません。

自分が短歌のブームを作る! と息巻くことも、今の私にはできません。

 

ただ、令和になって、短歌ブームがきたときに、自分もそのブームのなかの1人ではありたいという気持ちはあります。

 

いろんな人が短歌をつないできてくれたおかげで、私は短歌と出会うことができました。だから私も、楽しいと思うことは楽しいと言い続けていきたいと思います。

 

ということで、

短歌のすみっこを伝えるwebマガジン「TANKANESS(タンカネス)」を始めます。

tankaness.com

 

TANKANESSについての思いはこちらに書きました。

 

今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

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第3回葉ねサイファー 奇跡みたいな夜やった

昨日は中崎町のイケてる本屋、葉ね文庫で第3回目の葉ねサイファーでした。

 

http://hanebunko.com


サイファーは集まった人たちで輪になって音楽を流し、ラップしながら雑談するやつです。

 

第2回がかなり盛況だったことに甘えて告知を怠った結果、ラップやる側が私とひつじのあゆみさんだけ…という事態になりました。


見学者はちらほらいたので、序盤はずっと「勇気出してこっち側来てくださいよ〜」という内容をずっと言ってました。


ひつあゆさんが言ってたけど、前回6人でやったことを2人でやるとなると労働力が3倍なんですよね。

あと人数がいればどんどん話題が繋がっていくところが2人やと厳しかったり、見てる人おらんかったら2人でも楽しいと思うんですけど、一応見られてるしな〜みたいな感じでちょっと焦ってました。


あと、わりとしつこく呼びかけてたのは、「ほんまはサイファーやりたいけど恥ずかしい…」って人がおるんちゃうかなっていう予想があったからでした。


そもそも私も「サイファーやってみたい!」と思ってから数年経って、去年の秋にようやく初サイファーやったんで、同じ人おるんちゃうかなって思ってたんです。

 

雑談みたいなもの、とは言えども、音楽流れてるなかで即興で言葉を乗せるってめちゃくちゃハードル高いじゃないですか。

言葉に詰まったらどうしようとか、ちゃんと韻踏めるかなとか、リズムに乗れるかな、話題に乗っかれるかな、てか見学の人おるやんどうしよ〜とかもう書ききれんくらい死ぬほど不安じゃないですか。


というか前にも書いたことあるけど、「はじめて」っていうのは基本的に不安だらけじゃないですか。


「やってみたい」って気持ちが、不安に負けてしまうのは仕方ないんですけど、それを「仕方ない」で済ませられるタイプなら問題ないんですが、家帰って風呂とか入りながら、


「てな今日人数少なかったし、入ってみても良かったんちゃうかな…あ〜次回は入ろう」

 

って思ったとして、次回はもしかしたらめちゃくちゃ人数増えたりして「あ〜これは無理!前回入っとけばよかった〜!」ってなるかもしれんじゃないですか。


サイファーに関わらず、そういう類の後悔をこれまで何回もしてきたような気がして、私はそういうときに「一緒にやろう」って言われたかった人でした。


自分から行く勇気はなくて、言われたから仕方なく…みたいな体裁なら入れる、みたいなタイプでした。

でもそうやって誘われることは少なくて、誘われないから何もできないまま、後悔を重ねて生きてきた気がします。


だから最初のほうわりと強引に見学の方を煽ってましたが、あそこまで煽ったら「仕方ないな〜」という顔をしやすいかなっていう意図でした(感じ悪く見えてたらすみません)。


そうやって煽り続けた結果、見学におった人が入ってきてくれて、ちょっと感動しました。

そしてもう1人新たに増えて、4人になって、ラップの内容も広がるようになってきて、どんどん新しい話題が出てきて楽しくなっていきました。


DragonAshRIZE家系図言うだけで終わったりする小節もあって、その辺含めて楽しかったです。


そのあと遅れて1人入ってきて、もう人見学から増えてきて、みたいな感じで、6人中4人が昨日が人生で初サイファー。


これめちゃくちゃ感動的じゃないですか。奇跡すぎる。


人前で即興でラップする勇気を振り絞ってくれた人が4人もおるとか最高すぎるじゃないですか。


そんな初心者だらけのサイファーを見守ってくださった見学の方にも感謝してますし、閉店後に無償でお店を開けてくれてる店長の池上さんにも本当にありがとうございますという気持ちです。


あと、見てた人の中で「くっそ〜やっぱり入ればよかったな〜」っていう人がいたら、今後またやるので、いつか入ってきてください。


短歌を始めた時も、歌会行ったことないのに自分で歌会を企画して、そのとき来てた人のなかで今も短歌やってる人がいてめちゃくちゃ感動してるから、サイファーでも数年後そういう感動があるかもと思うと、ちょっとだけ未来が明るく思えますね。


今年になっていろんなことが散々で、いろんな気力を失ってたんですが、昨日、本当に楽しかったです。


ありがとうございました。

 

そして昨日も言ったけど、私の好きなラッパーはZORNです。ZORNを聴いてください。


https://youtu.be/SfEd0PA_rYI

性別を間違えられる

自分のペンネームで検索したことありますか。エゴサーチってやつですね。私はTwitterではよくしていてけど、たまにgoogleでも検索してます。


で、googleで「なべとびすこ」で検索したら「なべとびすこ性別」「なべとびすこ女性」ってサジェストされるんですよ。


たぶん、「なべとびすこって男か女かわからんな」って思った人が「なべとびすこ性別」で検索して、満足いく答えが出なくて「なべとびすこ女性」で検索してるんやと思います。

ヤフーニュースで取り上げられたとき、「性別がわからん」みたいなコメントがあった。それ以外の容姿とか服装とか髪型への悪口も多くて、すぐに閉じたからそれ以上はわからない。


ややこしいので説明しておくと、私は子どもの頃から何回も男性に間違えられてきましたが、女性です。


ただ、男性に間違えられても仕方ないなって思っていて、単に自分が好きな服装が男性っぽいものだから仕方ないなって感じです。声も低いほうやと思う。


髪が短いのはショートカットの女性が好きだから自分もショートカットにしてるだけで、Tシャツとかパーカーばっかり着てるのはTシャツとかパーカーを着てる女性のほうが好きやから自分もそういう服を着てるだけで、それ以上でも以下でもない。

だって自分の好きな服を着るのは当たり前じゃないですか。


短歌で「僕」って書いてるのは、「私」にすると1文字多いからっていうのと、私が好きなthe pillows山中さわおさんが歌詞で「俺」じゃなくて「僕」って書いてたり、ハルカトミユキのハルカさんが曲の中で「僕」って書いてるからとか、そういう理由だけです。


LGBTですか」って聞かれたり「LGBTの人と思いました」って言われたりするのも別に仕方ないと思ってて、そこで「いやいや!違うよ!!」と強く否定するのはLGBTの人にも失礼やけど、違うのに「そうです」って言う嘘は明らかにおかしいと思うから「よく間違えられるけど違うんですよ〜」ってやわらかめに言ったりしてる。


周りにLGBTで悩んでる人は何人もおったから差別意識はたぶんなくて(差別意識なんてだいたい隠れたものだから「たぶん」としか言えない)、間違えられたからって嫌じゃないけど、一応「違う」と伝えなければいけない煩わしさもあったり。


そもそも、男性と女性の見た目をなんで区分しないとあかんねんとか、女性だけなんで化粧しないとあかんねんヒール履かないとあかんねん結婚式で薄着じゃないとあかんねん、とかめちゃくちゃ思うけど、

男性側でも本当は化粧したいとかスカート履きたいとかあるんかもしれないですね。女性はスカートかズボンか選べるけど、男性はズボンだけってなんやねんとか。りゅうちぇるとか出てきて助かった人いっぱいおるんやろうな。


ただ、世の中で女性へのいろんな被害とか差別のニュースを見るたびに、女性側として怒りで腹わた煮え繰り返るような気持ちと、女性として見られなかったおかげで被害や差別に遭わずに生きてこれた自分のズルさみたいなものが一緒になって苦しくなる。


女性として見られないまま、可愛い女友達と一緒に遊んでると、知らんおじさんが可愛い友達にだけひたすら話しかけて私に話しかけてこなかったり(私から雑談に入っても無視される)、友達の前に私がいても私を押しのけて友達と話そうとする男がいたりもした。

それは私として嫌な感じを受けたけど、友達は友達で怖かったんやろうなって思う。

でも私の嫌な感じと友達の怖さは違う線の話な気がして、結局私は友達の怖さを理解しきれないし、友達も私の嫌な感じを理解しきれないかもしれない。


男性は私のことを女性として見ていない。だからこそ被害者にならずに済んだ。

でもむしろ、女性に見られていないせいで、人間として見られていないという瞬間もあった。


もちろん全員ではない。でも特に、仕事のできるタイプの男性には最初から見下されたような扱いを受けることが多かった。具体的な事例は何個もあげれるけど、思い出しただけでめちゃくちゃ腹が立つから書かない。

女性に見られていないから見下されたのか、本当に人間として見下されただけなのかもわからない。


女性として見られないなら、男友達ができるやん、男女の友情も成立するやんって思う人もいるかもしれないけど、とりあえず私には男性の友達が圧倒的に少ない。

大勢で楽しく会える人はいるけど、少数でじっくり話せる人はほとんどいない。


これは私が男性に対して苦手意識があるからかもしれないし、男性側の問題かもしれないし、ただの運かもしれないし、そもそもじっくり話せる友人なんか人生でそんなに多くないし、正直わからない。


私自身も女の友達といるほうが楽しい。でも、女性ばかりの場所が苦手っていう女性がいるのもわかる。女同士の面倒な揉め事っていうのはたしかに存在する。


私は女同士の面倒な揉め事にもほとんど巻き込まれなかった。恋愛も絡んだものなんかは全くない。

私が女性として見られていないことを女性側も共有しているおかげで、恋人にしたい男がいたときに絶対にバッティングしない(ライバルにならない)という安心感があるのかもしれない…って思うとこれまでの友情が打算的なものに思えてきて今めちゃくちゃ悲しくなったのでそんなことは絶対に否定したいけどわからない。


彼氏が欲しいみたいな話の流れで「スカート履けば」「髪伸ばせば」のアドバイスだけは明確に違うやろって言いたい。


でも、実際そのまま私に彼氏ができたら「ほら、スカート履かんでも彼氏できたやん」って言えるのに、言えないまま進んできたこの28年間にも腹が立つ。

 

性別を間違えられ続けた人生を、ずっとネタにしてきたし、ネタにできるほど自分にとっては瑣末なことだと思ってた。思い込もうとしてたのかもしれない。


ただ、ジェンダーのことが問題になるたびに、自分の立ち位置がわからなくなることはあった。


「同じ女性として」という言葉は私は使えない。女性として嫌な思いをしてなかったのに、そんな言葉は使えない。だからといって「同じ人間として」「同じ地球人として」とかもなんか違う気がするな。


「女性はみんなこういうのが好き」っていう言葉に共感できた試しもない。

でも男性になりたいわけでもない。女性を捨てたいわけでもない。


男性のなかに自分のなかの男性性を嫌ってる人もいるって知ったのは最近で、たぶんその感覚と自分はすごく近い気がした。

そういう男性が世の中にいるということを知っただけで、自分の悩みが少しだけ軽くなった気がした。


だから私と同じように、自分の立ち位置がわからなくなっている人がいるなら、自分のことも書いてみたいなと思った。


普段はこういう話はしないけど、これを書いてるときになぜかずっと泣きそうで、私は知らないうちにいろいろ傷ついてきたであろうことを理解した。


同じように傷ついた人がいれば共感してもらえたら嬉しいけど、多くの人は違うやろうから、その人は「そういう悩みを持つ人もおるんや」って思うだけでいい。


言いたいことがまとまらなくなってきたので短歌を載せて終わる。

 

 

躊躇なく「女」のほうに◯をつけるひびをスワイプし続ける日々/なべとびすこ

 

 

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歯医者はなぜ自画自賛をしてくるのか

私が行ってる歯医者はサトラレかと思うくらい思考がダダ漏れで、その前に「サトラレ」のことを知らない人はぜひ漫画を読んでください。(なぜなら私が人生で1番好きな漫画だから)

映画とかドラマ版もありますが、できれば漫画を読んでください。

 

まあ簡単に言うと、サトラレは「考えてることが人に伝わってしまう障害」(架空の)です。

 

もし私が街でかっこいい人を見かけて「うわ~あの人かっこいい~結婚してくれ~!」って思ってたら、そのかっこいい人だけでなく、周りにいる人にもこれが伝わっちゃうってことですね。

そんなことになったらもちろん「生きづらい」どころではなくて、まともには生きていけないんです。

だから、国はサトラレ自身にサトラレってことを悟られてはいけないんですね。サトラレはみんな天才的な頭脳や才能を持っているので、国から守られてるんです。

 

この「サトラレ自身は自分がサトラレとはわからない」という設定がミソで、「サトラレ」の漫画や映画やドラマ見た後、多くの人たちは「自分もサトラレなんじゃ」と思ったわけですね~こういうリアリティは大事~!

 

そんな話は置いといて、私の通ってる歯医者はめちゃくちゃサトラレみたいなんですよね。

 

しかも「あ~、ここの虫歯、写真では見えんけど俺やから気づけたなあ」「これはふつう治療が難しいけど、俺やからできたなあ」みたいな自画自賛がほとんどなんですが、

たまに失敗というか、虫歯を見落として「あ~っ、ここもっと早く気づけたらよかったな写真ではたしかに見えんけど俺ならば……俺としたことが」みたいなことまで言うんですよ。うるせ〜。

 

私は母と同じ歯科医に通ってるので、「きみのお母さんは歯茎が終わってるから」と言ってしっかり歯茎をマッサージするように歯を磨けと言ってきたり(指示自体は正しい)、「ボーイフレンド作るなら歯が強い子がいいね」などと言ってくるんですね。

これはもうサトラレとかいう問題じゃなくてデリカシーとかの問題やと思うんですけど。

あとFMのラジオがかかってるんですが、ラジオに対しても話しかけてることが多いです。一人でしゃべってるのに急に助手の人に「サカナクションってなんでサカナクションって名前なんやろ…知ってる?」とか話しかけたりするんですよね。(私は「魚」+「Action」ですよって言いたかったけど、治療中で口を開けてたので何も言えませんでした)

 

ただ、その話を友達にしたところ「え、ウチの歯医者もよく自画自賛してるわ」と言われんです。

そして別の人にその話をすると「私が言ってる歯医者も自画自賛してる!」って言ったんですよ。

3人中3人の歯医者が自画自賛をしているんです!(なんて薄っぺらい統計結果なんや)

 

歯医者は自画自賛をする生き物なんか?って話なんですけど、

 

たしかに歯医者って、虫歯を見つけたら嫌がられる(早期発見やから良いことをしてるのに)し、うまく治療したとしてもそれは当然のことで感謝されるわけでもない

どれだけうまく治療しても、患者はそんなことには気づかずに、麻酔がかかって違和感のある頬をさすりながら不機嫌に出て行くだけ。

 

つまり、ほかの医者、なんならほかの職業に比べて感謝されてないのが歯医者なんじゃないか?という話になったんですよね。

 

感謝されず、自慢の腕を褒められることなく、評価されることもない。

 

ややこしいとこにできた虫歯削りアワードみたいな大会もたぶんないし、痛みの少ない治療したで賞とかもたぶんない

 

そんななかで子どもに泣かれたり大人にも怯えた表情をされたりして、いつしか歯医者は自画自賛を始めるのではないか。

 

俺はややこしい虫歯も治せる医者

 

俺は写真には映らない美しさ(虫歯)を見逃さない歯医者

 

そうやって自分で言っていかないと、虚しくなってしまうのかもしれませんね。

 

だれかややこしいとこにできた虫歯削りアワードみたいな大会をひらいてあげてください。 

 

はたらく学校文化祭に登壇して改めて考えた「夢中になれるものの見つけ方」について

少し前のお話ですが、「はたらく学校「国語」 OL歌人に学ぶ!「短歌づくりで知る自分のシゴト観」に登壇しました。

shigotofield.jp

 

テーマは「夢中になれるものの見つけ方」だったんですが、実はこれまでにも近いことはよく友達から質問されてきたんですよね。だから今回の依頼を受けてか改めてめちゃくちゃ考えたので、せっかくなので書いておこうと思います。

部分的には当日もお答えしましたが、時間的に詳しくお話できなかった部分もあるので詳しく書いておきます。

 

趣味ってどうやったらできると思う?

好きなことってどうやったらできると思う?

 

そういう質問が来るのは、私がわりと趣味が多く見える人間やったからやと思います。

 

短歌と読書(小説、漫画、エッセイ)、ボードゲームだけでなく、音楽聴いたりカラオケ行ったり連ドラ見たり…くらいまでが自信持って好きと言えるものですが、まあ他にも映画観たりフェス行ったり美術館行ったり(この辺は最近できてない)、去年から料理も始めたし、あとは本当にたま〜にサイファーとか脱出ゲームとかでしょうか。

 

私の場合、好きなものが多いのと、好きなことやってる場面をSNSで発信したり、人に勧めたりするので、余計に趣味が多く見えるのかもしれません。

 

でも私は元々趣味とか全然ない人間だったんですよ。

 

小学生のときは本も映画も旅行も美術も嫌いで、音楽もあんまり興味ない(ミスチルスピッツの違いがわからない)し、特にHIPHOPなんかはもってのほかって感じでした。

 

嫌いなものだらけの状態から、徐々に好きなものが増えていったっていう流れです。

 

だからわりと、本が嫌いっていう人の気持ちもわかるし、短歌が難しそうって思ってる人の気持ちもわりとわかります。私もそうだったので。

 

趣味を作るには」「夢中になるものを見つけるには」っていう質問に、ずっと「数を打つしかないんじゃない」と言っていて、実際、数を打つのは大事やと思います。やってみないと、それが楽しいかとか、自分に向いてるかとかわからんから。

 

でも、数を打つには時間とか、モノによってはお金が必要で、数万円かけていろいろ買って準備したのに向いてなかったらとか思うと踏み出せない人もいるかもしれません。

 

また、「趣味を作りたい」って言ってる人のなかにはきっと、仕事とか家庭のことで忙しくて、趣味で息抜きしたいって人もいると思うんですよね。

ということは、その人はけっこう切実な状態のはずで、時間的な余裕や精神的な余裕がないかもしれなくて、そのときに「いろいろやってみれば?」っていうのは酷かもって思うようになったんですよね。

 

手探りで新しいことをやるのはふつうに体力がいるので、それをしんどい状況で実践できるとは限らないんですよ。あと、ギリギリの状態で変なとこに飛び込むとダメージがでかいです。(私もギリギリの状態で変な意識高い系の人にあって泣きながら帰ったりしたので…)

 

だから、そういう状況では、「効率的に数を打つ」ことが大事になると思います。

 

効率的ってなかなか難しいですが、とりあえずいろいろ考えた結果、まずは「自己分析」、もっと言うと「自分の棚卸し」が要るのかなと思いました。

 

過去に自分が好きだったものと嫌いなものの洗い出しです。

 

ただ、「その『好きなもの』がないんや!」って方もいるかもしれません。

でも今回改めて思ったのは、大事なのは「嫌いなもの」のほうかもってことです。

 

リストアップしたら、好きなものと嫌いなものの理由を明確にしましょう。

 

特に、嫌いなもののほう。

 

たとえば私はさっきも書いたけど、もともと本が嫌いでした。

 

本が嫌いなころの理由は

漫画は絵+文字、小説は文字だけやから、漫画の方が面白いに決まってる

 

短歌を嫌いだった頃(小説は好きになっていた)の理由は

小説は文章で登場人物や情景、心情をしっかり書いてくれてるけど、短歌は短すぎてなんもわからん

当時、短歌は教科書でしかやったことがなかったです。

 

料理が嫌いやった頃は

母が「うちがお金持ちなら毎日外食行ってる」とよく言ってたので、料理は生活のために嫌々やるものに決まっている、

 

でした。

 

で、この嫌いの理由って、よく見れば誤解や偏見が入ってますよね。

だから、誤解や偏見が解けたとき、好きに変わったんです。

 

誤解とか偏見が解けるまでにはいくつかステップがあったけど、それはまた別で書くとして、

嫌いなものの中に、好きになるかもしれないものが隠れてる」ということは知っておいてほしいです。

 

たとえば、私は運動神経が悪いからスポーツが嫌いやと思ってたんですけど、たぶんスポーツじゃなくて体育が嫌いやったんですよ。

 

「運動神経が悪い」のは事実としてあったから、

 

・みんなよりできなくて辛い

・周りから笑われて恥ずかしい

ドッジボール当たったら痛い

・体操服にシャツ入れるんダサいけど真面目やから入れつつ怒られへん具合の見極め難しい

・みんな夏場はくるぶしソックス履いてるのにウチだけ長くてダサい

・長い時期はソックタッチでみんな止めてるけど、肌が荒れそうやからウチだけ使われへんくてズルズル

アトピーやから汗かくとかゆい

 

とか細かいいろいろ理由があったわけです。

 

でも、私は「できない」から「できる」に変わる達成感とかは好きなはずなんです。

でも体育って、あんまりそこんとこ教えてくれずにただの才能テストと化してたりするじゃないですか。

 

先生のお手本なんか一瞬で、もっと具体的にどうすればいいのかを言語化して教えてほしかったのかもしれません。

 

そして後半の体操服のくだりとかは思春期とかぶったからそんなことを思ったけど、大人になってからのスポーツなんか好きなジャージ着ればいいから悩みませんよね。大人はドッジボールとかあんまりせえへんし。ってかドッジボールってボールのぶつけ合いでマジで野蛮じゃないですか?!当たると痛いし…って今は思ってるけど、当たると痛くないドッジボールがあったら好きになるんでしょうか。

 

って思うと、問題は「できない」の部分ですが、ちゃんとコーチとかがついてくれるタイプのとこやと、人より遅れるけど、できることがあるんですよ。

そうすると、やっぱり楽しいなって感じられて、スポーツが嫌いなんじゃなくて体育が嫌いやったんやなってわかりました。

嫌いな理由を明確にしてると、その要素に別の原因が絡んでることがわかったり、理由に誤解や偏見があったときに、好きに変えられるんですよね。

 

そして、何が「嫌い」かをわかっていると、新しいことにチャレンジする前に、向いてないことがありそうなら避けられるかもしれません。

 

また、何が「好き」かわかってると、他の人に勧められたときにちゃんと反応できる気がします。

他の人が何か趣味の話をしてたときに「○○って〜〜なところがめっちゃ楽しいねん」って言ってたとして、その「〜〜なところ」が自分の「好き」に近かったら興味を持てますよね。

 

あと、最初に言ってた「趣味ってどうやったらできると思う?」に対して、その子のことをよく知っていて性格がわかってたら、こういうの向いてそうやなとか、向いてなさそうやなとかある程度わかるので、個別のアドバイスができるじゃないですか。

 

実際私も、友達に短歌とかボードゲームとかサイファーを勧めたことは何回もあるんですけど、ある程度向いてそうな人にしか勧めないんですよね。

その「向いてそう」は私の主観でしかないけど、たとえば本人から「昔は○○が好きやったけど〜〜が原因でやめちゃって、新しい趣味を探してるねんけど、なんか良い趣味ある?」って言われたら、その子が好きなものの要素がありそう且つ、原因となったものが入ってなさそうな要素を頑張って探したりできるじゃないですか。

(毎回そんな都合の良いアドバイスはできませんが、考え方として)

 

だから、自分のことを理解して、自分の情報を開示するって大事やなって思います。

その自分の情報を持って、いろんな話を聞いたり、本とかテレビとかインターネットとかを見たりして、向いてそうなものがあったらできるだけ「やってみる」

そういう感じが良いんじゃないかと思います。

 

今回改めて気づいた「嫌いなものの中に、好きになるかもしれないものが隠れてる」っていうのは自分にとって大事なことだった気がします。

よく「短歌が苦手な人にわざわざアプローチせんでも」って言われたりするけど、「短歌が苦手な人」のなかにはいつか短歌に目覚める人が混ざってるって思ってます。私もそうですし、けっこういるんじゃないでしょうか。

 

その人が苦手意識を拭うにはいくつかステップが必要で、だから私はいろんなところにステップを用意しときたいです。

私と同じように、何かが好きで、好きな人を増やしたいって思ってる人は世の中にたくさんいると思うので、そういう人の発信を受け取れる準備のひとつが、自分の好きなもの・嫌いなものの棚卸しやと思います。

 一回チャレンジしてみてください。

 

イベントに来てくださったみなさん、ありがとうございました。

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3年A組の最終回を見ながら3年B組やC 組の子たちのことを考えてしまう人へ

3年A組、完結しましたね。

 

www.ntv.co.jp


第6話のときにもちょろっと感想書いたりしたんですが、私は大筋のストーリーより余計なことが気になる(ドラマにマジレスをする)タイプなので、ちょっと気になったことを書きます。

 

3年A組の生徒たちは、柊先生の10日間の授業を受けて、たくさんのことを感じたと思います。全力でぶつかってもらいながら、たくさんの言葉を聞いて、胸を打たれたと思います。

 

ただ、その10日間、3年B組やC組、D組(何クラスあるんかわからんが)の子たち、どう過ごしてたんかなって話ですよ。

 

本来行われる3月10日の卒業式をふつうに迎えたかった子もおったんやろうなって思うんですよね。
もしかしたら、卒業生代表のスピーチとか頼まれてた子もおったやろうし、そこで親に見てもらえるの楽しみにしてたんちゃうかなとか。

しかも彼らは最初の数日、ネットとテレビだけで情報を見てるから、A組の生徒は数人殺されたと思ってるはずで、もしA組に友達がいる子は気が気じゃなかったと思います。
もしかしたら受験とか控えてる子おったかもしれんけど、友達が殺されたかも、って思うと勉強なんか絶対できませんよね…。というかA組の子は受験とかなかったんですかね…?
推薦入学の話はあったけど。

 

HuluでA組の卒業式のストーリーやるって予告あったけど、B組やC組の子たちも、ちゃんと卒業式できたんかな…って思ってしまいますね。


確かに、物語のなかで言ってた通り、柊先生が命を賭けてあの10日間世の中には訴えかけても、世の中は変わらなかった。でも変わった人もいたはず…という話がありましたが、B組やC組の生徒は、授業中に近くの教室が爆破される、っていう体験をして、多少なりとも心に傷はついてるはずで、その心のケアとか誰も考えてなさそうじゃないですか。


学校側も建物の修繕とか武智と柊先生のぶん、人員足さないとあかんし…というか次年度の生徒を迎える準備とか絶対押してますよね…みんなサービス残業して対応するんやろうなあ…

 

あと柊先生がマインドボイスのユーザーから集めてた身代金、全額ユーザーに返金したって話がありましたが、それは学校の修繕に充てるべきでは…?


本性はともかく、武智の人気は学校の知名度向上に貢献してたはずで、その武智がああなったうえに、柊先生も逮捕された以上、学校の人気が落ちるのは目に見えてますよね。
校長の気持ち考えると辛すぎますね…。

 

そんなんドラマやから別にいいやんって思うかもしれないんですが、なんか気になっちゃうんですよね。


そういえば、私は昔からそういうところがあって、でもあんまりその話をしても誰にも共感されなかったんですよね。

 

でも大学のころに読んだ『ぼくらの』って漫画の6巻で、こういう考えをするキャラクターが出てきて、ちょっと救われたような気持ちになったんです。

もし私と同じく3年A組を見ながらB組やC組の生徒に思いを馳せていた方がいたら、ぜひ読んでみてくださいね。ただ、『ぼくらの』は6巻が異常に好きなだけで他の巻ぜんぶ勧めれるかというと個人的には微妙なので以下、引用させていただきます。

 

その子が、自分はアクション映画は苦手だって言うシーンのセリフを一部引用します。

 

ああいう映画ってたいてい一般の人達が巻き込まれて犠牲になるじゃないですか。
それも別にいいんです。そういう事態になれば実際に起こりえるわけだし、それをあえて避けるのもおかしい気がするから。

 

でも観客はたいてい、巻き込まれて犠牲になる群衆に関心をもたないですよね。

主人公達が死んでいくことには過剰に反応するのに

 

ぼくにとっては主人公達の死と、
画面の端で描かれる群衆の死は同じなんです。
虚構の中でそれぞれ意思をもち生活している人、違いがないはずなんです。

 

でも主人公が途中で出会った女の人と笑いながらエンディングを迎えるとハッピーエンド。主人公が死んじゃうとバッドエンド。
その感覚がわからないんです。
途中で群衆が一人でも犠牲になっていればそれはぼくにとってバッドエンドです。

 

この話はもう少し続きますが、それに対して大人が

 

「映画とかを純粋に娯楽のものとして捉えるなら、嘘でもいいからハッピーエンドっぽく見せかけたいわよね。
その虚構の世界のどこかで誰かがその事件のせいで泣いていたとしても、それを描かなければ問題として提起されないし認識されないし。

と言うと、

僕はそれが嫌なんです。
もし、それを普段からみんなが認識できるなら、現実でのいやな問題ももっと少なくなると思うんです。

 

3年A組で描かれたメッセージと、この考え方は部分的に共通するはずなので、B組やC組の子のことも、ほんの少しでいいから言及してほしかったんですよね。

 

まあそんな全方位に気を遣ったドラマ作りなんか無理なんかなあと思いつつ、恋愛ものとかでは、昔より「失恋した側」の救いが描かれてるような気もしているんですよね。

(前にそんなことも書いた)

nabelab00.hatenablog.com

 

フィクションのなかだからこそ、みんなに少しでも救いがあると良いなと思いますね。

 

ただ、3年A組に対しては、いろいろ言いつつ毎回楽しく見れました。良いドラマでしたね。