なべとびすこのなすべきこと

やってみたいをやってみよう。短歌を中心にいろんなことをやっている歌人のブログ。

トイ・ストーリー1から4全部観ました

この1ヶ月で、「トイ・ストーリー」を1から4まで全部観た。もともと「トイ・ストーリー」は子供のころに一度観ていて、そのときは「面白かった」と思った記憶がある。

でも基本的に映画をあまり観ないタイプだったことや、思春期以降「流行っているもの」への苦手意識が強くなり(※完全に中二病)、そのままトイストーリーシリーズを観ずに大人になってしまった。

 

何人かの友人は4が公開するより前は「3が1番好き!」と言っていてシリーズもので「3」が1番ってけっこう珍しいなと思って話を聞いていた。

 

そして今年、「トイ・ストーリー4」が公開されて、けっこう「賛否両論」と聞いた。私は「賛否両論」と聞くとわりと観たくなってしまうタイプなので気になりだした。そもそもトイ・ストーリーは前から観たくて、機会を探していたところなので、「もう1から順番に4まで観てしまおう!」と思った。

 

ここからトイストーリー1から4まで観たうえで全部ネタバレ有りの感想を書くので、まだ観てない人は読まないでください。

(それぞれ1回ずつしか観てないので考察が甘いところとかは大目に見てください)

 

トイストーリー1のウッディは、誕生日を迎えるアンディが最新型のおもちゃ、バズ・ライトイヤーをもらったことで自分の立場(アンディの一番のお気に入り)が脅かされる。

 

ウッディはバズに嫉妬しまくりで、自分の立場を守るためにそこそこ汚い手も使っている。そのせいでトラブルに巻き込まれるし、仲間からの信頼も失う。

大人の視線で冷静に見てしまえば、ある意味1で起こるトラブルは「自業自得」にも感じられる。

これに対してトイストーリー好きな友人からは、「それはあくまで大人の目線で公開当時の自分たちの年齢で見れば、ウッディの気持ちがめちゃくちゃわかるねん」と言われた。

たしかに、ウッディのバズに対する嫉妬は、子ども時代に妹や弟が生まれた時に感じるものと似てるのかもしれない(私は末っ子なのでそういう記憶ないけど)。

その嫉妬によってトラブルも起こるが、そこを乗り越えて絆ができる。

 

また、バズに関しては、自分がスペースレンジャーだと思い込んでいた状態から、おもちゃであることを突きつけられ、それを受け入れて「おもちゃ」としての居場所を見つける。バズはバズで、アイデンティティの喪失→獲得のストーリーになっているのも良い。

 

トイストーリー2は、ウッディが悪い大人に誘拐されるという外部要因でトラブルが起こる。バズは1のストーリーでウッディから教えてもらったことやウッディとの絆によって動く。

 

ウッディは誘拐された先で、自分が大人気の人形だったことを知る。高値で買い取られて博物館でほかのカウボーイ人形(ジェシー)たちと飾られることに最初は抵抗を示すも揺らいでゆく。ジェシーは捨てられた過去があることも聞く。

3の大きなテーマである、「いつかアンディに遊んでもらえなくなる」ことは、2から劇中でも示唆されていた。

なんやかんやでジェシーたちも連れてアンディの元に帰る。ジェシーは新たに遊んでくれるアンディと出会えたことで幸せになる。

 

2では揺らぎがありつつも、「アンディのおもちゃ」であることを望んでいたウッディだが、3ではアンディが大学生になった頃の話になる。

 

大きくなったアンディはおもちゃで遊ばれなくなり、おもちゃ達は寂しい日々を送る。

実際に、2から3の間でいなくなったおもちゃが何体かいた。(2で声が出なくなっていたペンギンや、4で活躍するボーも3では姿がない)

 

アンディが大学生活を送る新居への荷造りをする際に、お気に入りだったウッディは新居へ送る箱へ、ほかのおもちゃは屋根裏行きの袋に入れられる。

ウッディ含め全員幼稚園に寄付されてしまい、アンディに選ばれたウッディとほかのおもちゃの間には亀裂が入ったりもして、なんやかんやでみんなで戻ってきて、最終的にはアンディからモーリーという女の子におもちゃは受け渡される。(最後にアンディがモーリーと一緒におもちゃで遊んでるところで泣いた)

 

前から示唆されていた「いつかアンディに遊んでもらえなくなる」という悪い未来が現実になりつつも、別の子どもに受け渡されるという着地点は素晴らしかった。

 

4はモーリーに受け渡されてからのストーリーになる。

 

観る前は、トイストーリーで「賛否両論」ってどういうことやろう?と思ってたが、観たら否の気持ちもわからんでもなかった。

 

4では結局、ウッディはバズ達のおもちゃやモーリーと別れを決意することになる。

 

「否」側の意見で聞いたものは主に

・ウッディとバズにはずっと相棒でいてほしかった。

・ウッディにはずっとおもちゃとしての使命を果たしてほしかった

 

という部分のように思う。

 

1から3のストーリーで築き上げてきたバズ及び他のおもちゃとの絆や、ウッディがそれまでに何度も主張してきた「おもちゃとしての使命」に反する答えを出したように見える人もいるのかもしれない。

また、3があまりにも綺麗な終わり方をしたため、そこで終わっていて欲しかったというのもわかる。

 

個人的には、「ウッディにずっと誰かのおもちゃでいてほしい」は、エゴに近いものになると思う。

 

子どもにずっと子どものままいてほしいと思うようなものだ。

ウッディはモーリーから何日も遊んでもらっておらず、おもちゃとしての役割を失いかけている。

その状態で、役割にしがみついたとして、本当に幸せになれるとは思わない。バズや他のおもちゃとは楽しくやれるかもしれないが、ウッディはずっと子どものために生きてきたから、そのぬるい幸せだけで満足できるとも思えない。

 

ウッディはいわば、新卒入社で入った時はめちゃくちゃ仕事ができたけど年数を重ねてからにパッとしない社員や、子育てを終えたのに子離れできない親のようなもので、その社員や親が過去の成功体験にいつまでもしがみついていたら悲しすぎる。

 

そんな状態で過去に一緒にいたボー(3でいなくなっていた)が新しい場所で自由に生きているのを見たら、気持ちが揺らいでしまって当然だ。

 

3では、アンディ自身が「ウッディを手放す」決断をした。それは、遊びはしない自分の家に置いておくよりも、他のおもちゃとともにモーリーの元に行った方がウッディの幸せになると思ったからだろう。アンディもウッディの幸せを思った上での決断だったはずだ。

4でのウッディの決断は、より多くの幸せを生むための決断に思える。

モーリーの元にいても、幸せにできるのはモーリーだけである。しかも、モーリーには自分よりもっと気に入られているおもちゃが多数いて、自分がいなくてもモーリーが幸せな姿は想像できる。

4で、遊園地で子どもの元に行けないおもちゃや、ボイスボックスがなくて誰のものにもなっていないおもちゃの姿を見るなかで、ひとつでも多くのおもちゃが子どもの元へ行くことが幸せを生むことにウッディは気づいたのではないかと思う。

 

3で終わっていた方がよかった、という声もあるが、4でウッディとボーが示したのは、「いつか飽きられて捨てられる」という、これまで描かれていたおもちゃ側の不安へのアンサーのように思える。

「いつか飽きられて捨てられる」は、「おもちゃは子どもと遊ぶことでしか幸せになれない」という価値観の言葉である。

ボーとウッディが選んだ道は、おもちゃが自分自身のために生きても良いという、新たな幸せの形だ。それを示したことで、1〜3で繰り返し言われていた言説に応える形になっていたのが良いと思う。

 

主題歌で繰り返されるフレーズ「俺がついてるぜ」という歌詞も、それまでは物理的に近くにいるというように聞こえたのが、楽しい思い出の中で一緒に生きてるぜ、という感じに聴こえるのも良かったと思う。

 

何が言いたいかというとトイ・ストーリー本当に面白かったし感動しました。ありがとうございました。