ダメな自分を肯定しすぎた
一番辛いとき、私を肯定してくれたのは、ちょっとダメな人のエッセイだった。
「ちょっとダメ」の種類はそれぞれで、コミュニケーションがうまくいかないとか、片付けができないとか、無茶な計画を立てて失敗するとか、努力の方向性を間違えて報われないとか、何回もダイエットに失敗する…など。
でも、そんな作者にはそれぞれ才能があって、そんなダメなところも含め、魅力的に見えた。
そして私は、少しずつ自分のダメさを肯定できるようになった。
それまでは、自分がだらしないことやコミュニケーションが苦手なことなどに対する嫌悪感が強く、自分をどんどん嫌いになっていった。
だが、「ダメな自分を肯定する」のベクトルを、もう何年も間違えていたのかもしれないと思うことが何度かあった。そのたびに目を背けて、「だってダメなあの人たちは、あんなに才能があるんだから」と開き直っていた。
ただ、私には彼らのような才能はないことにももう気づいていた。
ダメな部分だけが共通していても、才能のない私は、彼らと一緒にはならない。
「ダメな自分を肯定する」ことのすべてが悪いことではない。自分のダメさを嫌って毎日消えたいと思いつづけるよりはずっと良い。
ただ、そこを肯定できたあと、もう一段階進んでもよかった。ただ、ダメな自分を肯定しすぎた私は、ダメな自分じゃなければ肯定できなくなっていたのかもしれない。
先月引越しをしたとき、人生で一番くらいの本気さで、自分のことが嫌いになった。
自分の部屋の散らかり具合と、収納におさまっていない物や本の多さ。全然読めていない本の山。明らかに要らないものを捨てる、という簡単な行為すらできていない現状。
引越しはそもそも大変な労力を伴うものだが、もうそんなレベルではなく、無駄に時間もかかり、無駄に体力を使い、無駄に体調を崩した。
毎日泣きそうになりながら作業をしたのに、結局当日の朝まで作業は終わらなかった。
このタイミングで変わらんかったら、たぶん一生このままなんやろうな、と思った。
以前書いたことがあるが、私は何かに困った時、適切に検索したりすることで、問題を解決する方法を推奨していた
もちろんそれでも治らないようなもの(ご存知の通り「方向音痴」など)もあるし、というか正直言えば世の中そういうものばかりだが、一旦ちょっと検索してみる、というのはこれまでもやっていた。
実際私は「つ」が発音できない問題もナイトスクープに依頼して解決したり、恐怖症の解決のために催眠術をかけてもらう(ちょっとマシになっただけ)などの行動を起こしてきた。
それなのに今まで「片付け コツ」「収納 テクニック」のような検索をしたことがないことに気づいた。私が検索していないということは、治したいと思っていないことと同義だった。だって私は困った時に絶対に検索をするから。
そして、職場の図書スペースに整理整頓の本がたくさんあったことを思い出した。世の中に、片付けや掃除の本は多数あることは知っていた。ただ、それにも手を出そうとしていなかった。治したいと思っていなかったから。
その中で見つけた本がコレだ。
『だから片付かない。なのに時間がない。 「だらしない自分」を変える7つのステップ』
ただ、正直読み始める前は「はいはい自己啓発本ね」と思っていた。
私は基本的に自己啓発本が嫌いだ。自己啓発本のなかでも胡散臭い内容の本のせいで友達が苦しんでいたことがあったから。そして、その友達に本を借りたので読んだこともある。(その本の意図を読み取ったうえで、これで救われる人はいるけど、友達にはあんまり向かないし、私には絶対に無理という結論になった)
そういう胡散臭い本の存在は実際にあるけど、まあとりあえず、と思って借りた。借りるだけならタダやし、しょーもない本なら返せばいいし。
最初の部分で、著者も元々だらしない人間だったことが書いてある。だらしない内容はかなりひどめの感じだったが、自分にも似た部分があることも理解した。
ただ、序盤でかなり共感することがあった。
整理術の本をいろいろ読んでもほとんど功を奏さなかった。そもそもきちんとしている人は、たいがいの整理術の本に書いているように、わかりきったことしか言わない。冷静になり、計画を立て、「とにかくやりなさい」か「いますぐやりなさい」だ。
「いやもうほんまそれ」と思う。片付けだけじゃなくて、寝つきが悪い人は試して、とか、寝起きが悪い人は試して、みたいなやつも大概そんな感じで、いや、それできたらやってるわ、と思うだけだった。
ただ、わざわざそう書いてるということは、この本はそういうアプローチじゃないということなので、ちょっと期待する。
また、だらしなさは創造性の源だと固く信じていた。だらしない人間は創造的、創造的な人間はだらしなさい。だらしなさ創造性は切っても切れない関係と信じるあまり、身の回りのことをきちんとできていて、かつ創造的な人の姿が目に入らなかった。
そういうところ有る…まさにそれ…ほんまにそれ…
いやこれウチやわ、穿った見方すんの止めよ、ということでようやく素直に読み進められた。
と思ってすぐにこうなった。
「だらしない自分を変える」みたいな本を借りたけどだらしないので危うく延滞しかけて再度借り直してる話しますか?
— なべとびすこ(鍋ラボ) (@nabelab00) 2019年6月21日
こういうだらしなさとTwitterは相性が良くて、自分のダメさはさらに肯定されていく。
実際そういうツイートは面白いことも多いし、それを楽しむことも発信することも、別に悪くはない。
ただ、その一瞬のために、このまま一生自分のだらしなさと付き合って、自分のことを嫌いになっていくことを想像して耐えられなくなった。
だらしなさもダメさも、楽しめる人はいる。人間には向き不向きがあるから、そこを否定するつもりは絶対ない。
もし今後私が今より数百倍まともな人間になったとしても、自分を救ってくれたちょっとダメな人のエッセイのことを絶対に否定したくない。人生でそこに救われるフェーズは確実に存在するし、それで救われる人は今後もいると思う。
でももう「私」はそのフェーズから抜けたい。
一番納得したのが以下の部分だった。
「システムや日課?
冗談じゃない。毎日決まったことをするなんて、退屈でやってられないね。システムだって、どうやって作るんだ!」。そう思う人もいるだろう。日課で人生が退屈になりそうな気がする人は、ちょっと考えてみてほしい。あわてふためいて鍵や所得税申告書を捜すことが、実際、そんなにおもしろいことなのか。汚れていない服はないかと物色することに、やりがいを感じられるとは思えない。
ぐうの音も出ん…
「今後のためにとっておいて、専用のファイルをつくろう」(かといってなんの専用にするかは未定)
心当たりがありすぎる…
約束に遅れたり、ギリギリまで用事をやらなかったり、滑り込みで締め切りに間に合わせたりすると、ゾクゾクするような興奮を覚えるものだ。(中略)
この種の刺激は胸をワクワクさせる。同時進行でいろんなことをこなし、何かを達成しているような錯覚を抱き、時間を有効に活用している気がしてくる。しかも、物事をギリギリにするのはとても刺激的なので、深刻な悩みにわずらわされずにすむ。
この本は整理整頓術という実用面以上に、なぜだらしない生活を過ごしてしまうのか、
という心理的なアプローチが多い。実際にだらしない人の経験を元に、いろんなパターンを紹介している。
私はだらしないが、約束の時間に遅れることはそこまで多くはない(※0ではない)ので、自分に当てはまらないときも、「そういう考え方の人もおるんや」と納得できた。
わざわざこんなブログを書いてるのは、今の本気の変わりたい気持ちを残しておきたいと思っているからだ。
数ヶ月経って結局まただらしない自分に戻ったら、このブログが世に存在すること自体がめちゃくちゃ恥ずかしくなるだろう。